(略)
1894年、朝鮮で反政府勢力による反乱(東学党の乱)が起こると、清は朝鮮の救援要請に応じて派兵しますが、日本はこれを天津条約違反であると糾弾して出兵し、反乱鎮圧後も朝鮮の独立や開国を求めて兵を退きませんでした。こうして両国の緊張は高まり、ついに日清戦争が始まりました。日本にとっては秀吉による文禄・慶長の役以来となる外国との戦争であり、列強のあいだには、見よう見まねの近代化を始めたばかりの小さな国が大国清に勝てるはずがないとの見方もありました。
同年9月の黄海の海戦では、大型戦艦の「定遠」と「鎮遠」を含む11隻からなる清の北洋艦隊と、11隻の装甲巡洋艦を擁する日本艦隊とが交戦し、世界で初めての近代的な軍艦が激突する海戦になりました。北洋艦隊は合計22門の30cm大口径砲、20門の中口径砲を装備し、日本艦隊は12門の30cm砲と24門の中口径砲、そして66門のアームストロング速射砲を備えていました。
中心に「定遠」と「鎮遠」を据え、左右の横陣を張って向かってきた清に対し、日本は「吉野」を先頭艦とした高速巡洋艦4隻と、日本三景から名をとった三景艦と呼ばれる「松島」「厳島」「橋立」(図3‐3)を主体とする6隻の戦隊という二つの単縦陣で、相手の右翼を迎え撃ちました。スピードある単縦陣による艦隊単位の速射砲攻撃が功を奏し、取り囲まれた北洋艦隊は数時間ののち、巡洋艦5隻が撃沈されて、黄海の海戦は日本艦隊の勝利となりました。
北洋艦隊は威海衛の旅順港に逃げ込み、日本は黄海と渤海の制海権を掌握しました。それは清の首都北京が素通しになることを意味しており、また、翌年には北洋艦隊が威海衛の戦いで日本の陸海軍共同作戦により壊滅したことから、清は講和を申し入れ、日清戦争は日本の勝利に終わりました。
近代国家に生まれ変わって初めての勝利をあげた日本海軍は、黄海海戦での教訓をおよそ次のように分析しました。
(1)速力があり、訓練が行き届いた艦隊による攻撃は有効である。
(2)速射砲は従来の砲よりも有効である。
(3)だが中口径の速射砲は敵艦の装甲を破壊する決定力に欠いていた。一方で大口径の「松島」「厳島」「橋立」は目標に大砲を向けるのが遅れ、有効な砲撃が一発もできなかった。
(4)強固な装甲は砲弾に対して高い耐久力を有する。
これらの反省から、高速で航行し、発射速度の速い大口径砲をもち、強固な装甲を施された戦艦群をそろえることが重要であると理解されました。日本海軍はこの指針に沿って、次なる戦いに向けて軍備の増強を進めました。想定されていたのは、対ロシア戦でした。
(略)
1904年2月6日、日本海軍は朝鮮の釜山沖でロシア船2隻を拿捕しました。2月8日、日本陸軍先遣部隊の第12師団が仁川に上陸し、その際にロシア艦コレーエツと遭遇して発砲しあったのが最初の戦闘でした。その夜、日本海軍は旅順港のロシア艦隊に奇襲攻撃をかけ、翌9日には仁川港で巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを攻撃して沈没させました。宣戦布告は、その翌日の10日でした。明治維新からわずか36年で、日本はついにロシアを相手に戦争を始めてしまったのです。
この戦争に莫大な費用がかかることは明白です。約4億5000万円はかかると見積もった日本政府は、戦費調達のため、当時、日本銀行副総裁であった高橋是清をロンドンに派遣し、外債を募集しました。しかし世界の下馬評は「ロシア有利」一辺倒で、応募する人など皆無でした。このままでは戦争ができないと困りはてた高橋は、ある銀行家の晩餐会に招かれたときに、隣に座った米国の銀行家と親しく話をしました。
この銀行家はヤコブ・ヘンリー・シフというユダヤ人で、ロシア帝国はユダヤ人を迫害していると高橋に語り、もしもこの戦争で日本が勝てばロシアに革命が起こり帝政を葬るだろう、自分はそれを願い、利には合わないかもしれないが日本を援助する、との考えから500万ポンド(約5000万円)の国債を引き受けてくれたのです(野口悠紀雄『マネーの魔術史』新潮選書)。これがなければ、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。
全文はソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/605db603e832f07f7aedaa72b9798f7ce08026ee?page=1
引用元: ・かつて日本が「中国」「ロシア」という2大国に「勝利」することができた理由 [1/10] [昆虫図鑑★]
日英同盟の存在がデカかったのは確か
The post かつて日本が「中国」「ロシア」という2大国に「勝利」することができた理由 first appeared on TweeterBreakingNews-ツイッ速!.